2025年ノーベル賞、坂口志文先生の偉業:「免疫のブレーキ」の発見が医学をどう変えたか
更新日 : 2025年10月21日
2025年10月、スウェーデンのカロリンスカ研究所は、同年のノーベル医学生理学賞を日本の科学者、坂口志文先生(大阪大学 免疫学フロンティア研究センター 特任教授)に贈ると発表しました3。受賞理由は「免疫寛容を司る制御性T細胞の発見」。
受賞決定後の記者会見で、坂口先生は「大変名誉なこと。自分の好奇心から始めた研究が、多くの人の役に立つ可能性が出てきたことが何より嬉しい」と、喜びを語りました4。
この発見は、「なぜ私たちの体は、自分自身を攻撃しないのか?」という生命の根源的な謎を解き明かし、がん、自己免疫疾患、アレルギー、臓器移植など、現代医療が直面する多くの課題に光明を投じた、まさに革命的なものでした。
この記事では、坂口先生の発見がいかに画期的であったか、そして私たちの未来の医療にどのような可能性をもたらすのかを、その発見に至るまでの物語とともに紐解いていきたいと思います。筆者はいち医学生として先生のこの発見に対して深く尊敬をしており、正しくかつわかりやすく私なりにまとめて見ました。
第1章:免疫学の長年の謎「自己」と「非自己」の境界線
私たちの体には、細菌やウイルスといった外部からの侵入者(非自己)を攻撃し、体を守る「免疫」という精巧なシステムが備わっています。この免疫システムには様々な役者が関わっており、有名なところで言うと白血球とか呼ばれるものたちです。しかし免疫はそれだけでなくマクロファージや樹状細胞、リンパ球といった他にも大事な役割をもった細胞たちがたくさんいます。今回の発見の主役は、リンパ球の一種であるT細胞です。T細胞は、体内に侵入してきた異物を認識し、攻撃する兵隊のような役割を果たします。
しかし、ここで一つの大きな疑問が生まれます。私たちの体もまた、タンパク質や細胞(自己)でできています。なぜ、免疫システムは外部の敵だけを攻撃し、自分自身の体を攻撃しないのでしょうか?とても不思議です。このように免疫には「自己」を認識して攻撃しない「自己寛容(免疫寛容)」という仕組みが備わっています。
この「自己寛容(免疫寛容)」の仕組みは、長年、免疫学における最大の謎とされてきました。坂口先生の研究以前、主流だった考え方は「クローン除去説」というものでした。これは、「自分を攻撃してしまう危険なT細胞は、作られる過程(胸腺という臓器)で、あらかじめ除去(殺されてしまう)されている」という説です。いわば、危険な兵隊は訓練所から出てこない、という考え方です。
この説は多くの現象を説明できましたが、それでも説明がつかないことがありました。健康な人の中にも、自分自身に反応してしまうT細胞が少数ながら存在することが分かっていたのです。もしクローン除去説が全てなら、これらの危険なT細胞は、なぜ暴走せずに大人しくしているのでしょうか?まるで、街中に危険な思想を持つ者がいても、それを抑える警察のような存在がいるかのようです。しかし、その「警察」の正体は誰も知りませんでした。もちろん、胸腺で選別しきれなかった細胞たちが悪さをしているかもしれません。しかしそうなってくると後天的にアトピーや喘息(どちらも自己免疫疾患)が治る、反対に大人になってから花粉症になる関節リウマチになるといった病態はどうやって説明することができるのでしょうか?
第2章:逆転の発想が生んだ大発見「制御性T細胞」の誕生
坂口先生のキャリアは、病理医としてスタートしました。臨床で自己免疫疾患の患者さんを診る中で、「なぜ免疫は自分を攻撃するのか」という根源的な問いに魅了され、研究の道へ進みます。
多くの研究者が「自己を攻撃するT細胞」そのものを研究する中、坂口先生は全く異なるアプローチをとりました。「もしかしたら、健康な体の中には、免疫の攻撃を積極的に『抑える』役割を持つT細胞が存在するのではないか?」と考えたのです。
そして、1995年、その存在を決定的に証明する独創的な実験論文を発表します1。
坂口先生の歴史的な実験
- 健康なマウスからT細胞全体を取り出す。
- そのT細胞の中から、「CD25」という目印(分子)を持つT細胞だけを取り除く。
- 「CD25」を持つT細胞が“いない”T細胞集団を、免疫機能のない別のマウスに移植する。
- 結果 マウスは全身で免疫が暴走し、自分の体を攻撃し始める自己免疫疾患を発症した
- この病気になったマウスに、先ほど取り除いておいた「CD25」を持つT細胞を戻すと、自己免疫疾患が治まった。
この結果が意味することは、ただ一つでした。健康な体の中には、常に免疫の暴走を監視し、過剰な攻撃にブレーキをかける役割を持つ特殊なT細胞が存在する。それが「CD25」という分子を目印に持つT細胞である、と。
坂口先生は、この免疫のブレーキ役を「制御性T細胞(Regulatory T cell, 通称Treg(ティーレグ))」と名付けました。免疫システムには、アクセル役のT細胞だけでなく、ブレーキ役のTregが同時に存在し、その絶妙なバランスによって健康が保たれているという、免疫学の常識を覆す概念が誕生した瞬間でした。
第3章:常識への挑戦、孤独な戦いの先に
この発見は、あまりに画期的であったため、発表当初、世界の免疫学界からは強い懐疑の目で見られました。当時の免疫学の根幹をなしていたのは「自己を攻撃するT細胞は、成熟の過程で除去される」という「クローン除去説」でした。この美しい理論のもとでは、体内に残っているT細胞はすべて攻撃役(アクセル)であり、「免疫を抑制する」というブレーキ役の細胞の存在は理論的に考えにくく、「サプレッサーT細胞」という概念は一度否定された過去の亡霊のように扱われていたのです。「免疫を抑制する細胞など存在するはずがない」という長年の常識(ドグマ)が、あまりにも根強かったのです。
その逆風は凄まじく、坂口先生は学会で研究成果を発表してもほとんど質問が出ないという、研究者にとっては最もつらい「無視」という壁に直面します。世界的な科学雑誌に論文を投稿しても、査読者からは厳しい批判を受け、なかなか受理されない。研究を前に進めるための研究費の獲得にも苦労する、まさに「冬の時代」が長く続きました。多くの研究者が諦めてしまうような状況の中、坂口先生を支えたのは、自らの実験データが示す事実への絶対的な自信でした。
「皆が賛成することばかりやっていても、新しい発見はない。自分の目で見たもの、自分の手で得たデータを信じるしかない」。その信念のもと、地道に、そして粘り強く研究を続け、ついに2003年、Tregがそのブレーキ役として機能するために必須の“マスター遺伝子”とも呼べる転写因子「Foxp3」を発見します2。
このFoxp3の発見は、Tregを巡る論争に終止符を打つ決定的な一打となりました。なぜなら、Tregという細胞が、他のT細胞が一時的に抑制機能を持った「状態」なのではなく、Foxp3という遺伝子によって運命づけられた、生まれながらの「抑制専門の細胞系列」であることを世界に証明したからです。この発見を機に、Treg研究は爆発的に進展します。かつて懐疑的だった研究者たちも次々とTreg研究に参入し、坂口先生の発見は、免疫学における揺るぎない基本原理として教科書に載るほどに認められるようになったのです。孤独な戦いの末に、一つの真実が世界を動かした瞬間でした。
第4章:「ブレーキ」の調整が医療を変える
坂口先生の発見した「免疫のブレーキ」という概念は、様々な病気の理解と治療に革命をもたらしました。
自己免疫疾患・アレルギー(ブレーキが弱すぎる病気)
関節リウマチや1型糖尿病といった自己免疫疾患は、「免疫のブレーキが壊れ、アクセルが踏みっぱなしになった状態」です。
治療への応用: この理論に基づき、坂口先生はTregを利用した細胞医薬品開発を目指すベンチャー企業「レグセル株式会社」を設立しました7。ここでは、患者自身のTregを体外で増やして体内に戻す治療法や、Tregの機能を高める薬剤の開発が進められています。これは、壊れたブレーキを修理・増強し、免疫の暴走を根本から抑えるという、全く新しい治療戦略です。
がん治療(ブレーキが強すぎる病気)
一方、がんは免疫の監視を巧妙にかわす術を持っています。その代表的な戦略が、がん組織の周りにTregを大量に呼び寄せ、「免疫抑制的な微小環境」を作り出すことです5。例えば、脳腫瘍の一種である膠芽腫(グリオブラストーマ)では、腫瘍細胞がTregを活性化させる物質(ICOSLG)を出すことで、T細胞の攻撃に強力なブレーキをかけていることが報告されています8。
この発見は、本庶佑先生らのノーベル賞受賞理由である「免疫チェックポイント阻害剤」とは異なる角度から、がん免疫療法に道を開きました。免疫チェックポイント阻害剤がT細胞のアクセルを再始動させる治療なら、Tregの働きを弱めたり、腫瘍内への侵入を防いだりする治療は、かかっているブレーキそのものを解除することに相当します。現在、これらを組み合わせた、より強力ながん免疫療法の開発が世界中で競われています5。
臓器移植・再生医療
移植された臓器が拒絶されるのは、免疫システムがそれを「非自己」と判断し攻撃するためです。Tregは、この拒絶反応を抑える上で中心的な役割を果たします。
移植前にTregを増やしておく、あるいは移植臓器と一緒にTregを投与することで拒絶反応を抑え、生涯にわたって服用が必要な免疫抑制剤の使用を減らせる可能性があります。これはiPS細胞を用いた再生医療においても同様に重要です。
常識を疑う好奇心が生んだ偉業
坂口志文先生の発見は、「免疫には攻撃役しかいない」という単純な描像を、「攻撃役(アクセル)と抑制役(ブレーキ)が精緻なバランスをとる動的なシステムである」という、より深く豊かな理解へと導きました。
臨床医としての鋭い観察眼と、常識に屈しない強い意志、そして自らのデータを信じ抜く研究者としての誠実さが、この歴史的な発見をもたらしたのです。坂口先生の研究は今なお進化を続けており、最近では炎症を抑える上で重要な役割を果たす新しい分子(可溶性CTLA-4)の機能を解明するなど、免疫の謎のさらなる探求を続けています6。
免疫のブレーキである「制御性T細胞」の発見は、基礎免疫学の教科書を書き換えただけでなく、今まさに、がんや難病に苦む多くの患者さんを救うための新しい治療法を生み出し続けています。坂口先生の尽きることのない探究心に、心からの敬意を表します。
一度は私も素晴らしい先輩医学研究者達に憧れて研究に励んでいたこともありますが、地道な実験操作や先の見えない活動に嫌気がさしてしまい現在はその熱も冷めてしまっていました。しかしこうしてノーベル賞というのを契機にどうしてこの発見がなされたのかを調べていると、この「世界の誰も知らなかったことを解明する」という行為がいかに素晴らしくて輝いているものなのかと改めて実感いたしまいた。今でこそ私は外科医を目指していますが、将来的には絶対研究の分野にまた戻り、無限の可能性がある、この「ヒト」や「生物」について研究してみたいと思いました。
引用論文・資料
- Sakaguchi, S., Sakaguchi, N., Asano, M., Itoh, M. & Toda, M. (1995) ‘Immunologic self-tolerance maintained by activated T cells expressing IL-2 receptor α-chains (CD25)’, Journal of Immunology, 155, pp. 1151–1164.
- Hori, S., Nomura, T. & Sakaguchi, S. (2003) ‘Control of regulatory T cell development by the transcription factor Foxp3’, Science, 299(5609), pp. 1057–1061.
- The Nobel Assembly at Karolinska Institutet (2025) ‘The Nobel Prize in Physiology or Medicine 2025 – Press release’. Available at: https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/2025/press-release/
- Osaka University (2025) ‘ノーベル賞受賞記者会見:坂口志文教授コメント’. Available at: https://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/topics/2025/10/nobel_press_conference
- Tay, C., Tanaka, A. & Sakaguchi, S. (2023) ‘Tumor-infiltrating regulatory T cells as targets of cancer immunotherapy’, Cancer Cell, 41(3), pp. 450–465.
- Osaki, M. & Sakaguchi, S. (2025) ‘Soluble CTLA-4 regulates immune homeostasis and promotes resolution of inflammation by suppressing type 1 but allowing type 2 immunity’, Immunity, 58(4), pp. 889–908.
- レグセル株式会社 (n.d.) RegCell.jp. Available at: https://regcell.jp/
- Iwata, R., et al. (2020) ‘ICOSLG-mediated regulatory T-cell expansion and IL-10 production promote progression of glioblastoma’, Neuro-Oncology, 22(3), pp. 333–344.