【とある日のmonologue #14】ラーメンのスープを「飲み干す時」と「残す時」のささやかな哲学について。
更新日 : 2025年10月6日
今日は非常にどうでもいい、しかし、私にとっては重要な食生活における一つの”哲学”について語りたいと思います。
それは、ラーメンのスープに関する、あるルールです。原則として私はラーメンのスープを飲み干しません。体に悪いからです。
しかし、そんな私が年に数回だけ、その禁を破り、丼の底に描かれた龍の絵とこんにちはするまで、スープを飲み干してしまう瞬間があります。今日は、その「飲み干す時」と「残す時」を分ける、私なりの基準について語らせてください。
原則は「残す」
ご存知の通り、ラーメンのスープは、塩分と脂肪分の、魅惑的な、しかし極めて危険な混合物です。これを全て体内に取り込むという行為は、将来の健康という、何物にも代えがたい資産を、目先の快楽のために売り渡すに等しい。そう私は考えています。
ですから、私の日常におけるラーメンとの付き合い方は、非常にビジネスライクです。麺と具材を、スープの”旨味”という名のドレスをまとわせながら、いただく。そして、主役がいなくなった後のスープには、「今までありがとう」と、そっと、心の中で別れを告げる。これが、大人の、分別あるラーメンの嗜み方だと、私は信じています。
では、私が”禁忌”を破る時とは
しかし、そんな鉄の意志を持つ私でさえ、全てを投げ打って、スープを飲み干してしまうことがあります。それは、一体、どんな時か。私の基準は、たった一つです。
それは、その一杯に、作り手の”物語”を、感じてしまった時です。
ラーメンって、不思議ですよね。ただの料理なのに、店主の人生みたいなものが、スープに溶け込んでいることがある。頑固そうな親父さんが、一人で切り盛りしているカウンターだけの店。何十年も、同じ場所で、同じ味を守り続けているんだろうな、と感じる、深く、優しい、滋味あふれるスープ。そういう一杯に出会ってしまった時、私は、健康というちっぽけな理性を、投げ捨ててしまうんです。
このスープを残すことは、この親父さんの、人生の一部を、否定するような気がしてしまう。だから、私は、最大限の敬意を込めて、丼を両手で持ち上げ、最後の一滴まで、飲み干すのです。「ごちそうさまでした」という言葉と共に、その物語を、私の体の一部にするために。
…と、ラーメンごときで、何を大袈裟な、と思われるかもしれませんね笑。
でも、私が言いたいのは、こういう、日常の些細な行動一つひとつに、自分なりの「理由」とか「哲学」みたいなものがあると、世界はちょっとだけ、面白くなるんじゃないかな、ということです。
なぜ自分はこの参考書を選ぶのか。なぜ自分はこの時間に勉強するのか。なぜ自分はこの大学に行きたいのか。何事も、「みんながそうしているから」で思考停止するのではなく、自分なりの、たとえそれが、どんなに拙くても、自分だけの理由を見つけてみる。その、”思考するクセ”こそが、あなたの学びをもっと深く豊かなものにしてくれるはずです。