最初の洗礼:「わかる」はずの英語が、わからない
更新日 : 2025年8月26日
日本からは私の大学からだけでなく関東、九州、関西、東北とあらゆる場所から合計20名強が参加していました。寮の部屋は4人一つ部屋で最初に荷物を置いたときは誰もおらず、この部屋で出会うのはどんな人たちなのだろうと思いました。
さて研修初日は、オリエンテーションから始まりました。現地のコーディネーターから説明を受けながらこの研修の全体の目的と概要を伝えてもらいました。
正直なところ、私には少しだけ、心の余裕がありました。なにせ、私は「帰国子女」。日常会話なら、他の日本人学生には負けないだろう、と。自分だけがスムーズな自己紹介ができている様子を脳内でシミュレーションしていました。
しかし、その自信と余裕は、オリエンテーション開始後、わずか5分でに打ち砕かれることになります。周りの参加者の英語力がすさまじい。自己紹介なんて当たり前。なんなら専門用語も手慣れた感じで私以上にペラペラ話していました。すごいのなんの。
そしてプログラムの責任者である、人の良さそうな初老の教授が、笑顔で話し始めました。
——-やばい、これはむずい。
理解はできますが言葉の重みが桁違いでした。これまで多くの日本の医学生を指導してきたというDr. 小林はそれはゆっくり丁寧に話してくださる一方、その一つ一つの言葉選びが秀逸でした。
そして、追い打ちをかけるように、研修内容の説明で、私の知らない単語の集中砲火が始まりました。
「Cardiology (心臓病学)」「Oncology (腫瘍学)」「Nephrology (腎臓病学)」「residency (研修医)」「attending physician (指導医)」…
そうです、これがこの研修の最初の、そして最大の壁、「医療専門英語」でした。子供の頃に身につけた英語力は、あくまで日常会話のサバイバルスキル。人の命を預かる現場で使われる、正確無比で、専門的な英単語や表現の前では、ほとんど無力だったのです。私の脳の翻訳エンジンは、完全にオーバーヒートしていました。
続く質疑応答では、同じく日本から来た学生たちが、流暢とは言えなくとも、的確な専門用語を使って次々と鋭い質問を投げかけていきます。その姿を前に、「帰国子女」というアドバンテージを心の支えにしていた私は、完全に沈黙するしかありませんでした。「下手に質問して、見当違いなことを言ったらどうしよう」という恐怖が、口を縫い付けていたのです。
それは、小学2年生のあの日、ボストンの教室に初めて入った時の、あの無力感。そして、周りのみんなが当たり前に理解している輪の中に、自分だけが入れないという、強烈な疎外感でした。
初日の研修が終わり、夕暮れの道をホテルへと歩きながら、私は高揚感と疲労感、そして少しの屈辱が混ざった、複雑な気持ちを味わっていました。美しいサンセットとは裏腹に、心はどんよりと曇っていました。
しかし、不思議と絶望はしていませんでした。子供の頃の自分と違うのは、今の私には明確な目標があるということです。「アメリカで外科医になる」という夢。その夢の解像度が、この日、一気に上がったのです。
私が乗り越えるべき壁は、「ネイティブと楽しく話せる」という漠然としたものではなかった。「医療の現場で、プロフェッショナルとして、対等に議論できる英語力を身につける」という、遥かに高く、そして具体的な壁でした。ゴールが明確になったことで、私の心には、悔しさとともに、新たな闘志が静かに湧き上がっていました。
初日から、見事に鼻っ柱をへし折られた私。しかし、この研修の本当の面白さと厳しさは、ここから始まるのでした。
次回は、現地の医学生とペアを組んで臨んだ、初めての模擬患者への問診についてお話しします。