私たちはこころとどう向き合っていけばいいのか
更新日 : 2025年9月23日
はじめに:「ポジティブでいなきゃ」という見えない圧力
今日はいつもと違い学術的な長文のブログです。私が普段から現役の医学生として常日頃から考えている、「こころ」の問題について自分が一時期軽く適応障害になりかけた経験もあることからまとめていこうと思います。
「いつまでも落ち込んでいてはダメだ」「もっと前向きにならなければ」。
かつて私は自分の過ちで最も大切な人を傷つけ、別れを経験しました。世界から色が消えるほどの喪失感。しかし、私はその悲しみや罪悪感を「強くあるべきだ」という鎧で覆い隠し、仕事に没頭し、何事もなかったかのように振る舞いました。心の中は後悔の嵐なのに、その声に耳を塞いでいたのです。
しかし、蓋をした感情は消えません。行き場を失ったエネルギーは内側に溜まり続け、ある夜、張り詰めていた糸が切れ、涙が止まらなくなりました。その時初めて、強がることが癒やしを遠ざけ、傷を深くしていただけだと悟ったのです。
この経験は、現代社会に蔓延する「ポジティブ神話」、つまりネガティブな感情は隠すべき弱さだという考えの危険性を教えてくれました。心に湧き上がる自然な感情に蓋をし続けると、心身は静かに悲鳴を上げ始めます。今回は、なぜ感情を無視することが危険なのか、うつ病のメカニズムを解説し、私たちの生存に不可欠な「不安」や「うつ」といった感情と上手に付き合っていく方法を考えていきたいと思います。
心の警報装置が壊れるまで:うつ病になってしまうメカニズム
私たちの心と身体は、非常に巧妙な自己防衛システムを持っています。強いストレスに晒されると、脳の警報システムが作動します。まず、危険を察知する扁桃体が過活動になり、それに応じて視床下部-下垂体-副腎系(HPA系)が活性化され、コルチゾールなどのストレスホルモンが大量に分泌されます¹。これは、短期的な危機(例えば、猛獣に襲われるなど)に対応するためには非常に有効な反応で、心拍数を上げ、筋肉にエネルギーを送り込み、かの有名な「戦うか逃げるか(Fight or Flight)」の準備を整えます。
しかし、現代社会のストレスは、猛獣のように一過性のものではありません。終わりの見えない仕事のプレッシャー、複雑な人間関係、将来への漠然とした不安など、慢性的で持続的なストレスが私たちのHPA系を常にオンの状態にしてしまいます。すると、過剰に分泌され続けたコルチゾールは、脳に毒として働き始めます。
特に影響を受けるのが、記憶や感情の制御に関わる「海馬」と、理性や判断を司る「前頭前野」です。海馬は慢性的なストレスによって神経細胞の新生が抑制され、萎縮することさえあります¹。これにより、HPA系の活動を抑制するブレーキが効かなくなり、さらにストレスホルモンが分泌されるという悪循環に陥ります。また、前頭前野の機能が低下すると、感情のコントロールが困難になり、ネガティブな思考から抜け出せなくなります。
この脳の機能不全が、セロトニンやドーパミンといった神経伝達物質のバランスの乱れを引き起こし、「何をしても楽しくない(アンヘドニア)」「常に不安で仕方がない」「意欲が湧かない」といった、うつ病特有の症状として現れるのです。感情を無視し、ストレスサインを放置することは、脳という精密機械を、自ら故障させてしまう行為に他なりません。
不安と「うつ」は生命の味方である
では、私たちを苦しめる不安や抑うつといった感情は、単なる悪者なのでしょうか。進化心理学の観点から見ると、これらの感情は、むしろ私たちの祖先が厳しい自然界を生き抜くために発達させてきた、重要な生存戦略という考えが近年一説として唱えられ始めました。
不安は、未来に起こりうる危険を予測し、それに備えるためのアラームです。「試験に落ちるかもしれない」という不安があるからこそ、私たちは勉強をします。「猛獣に襲われるかもしれない」という不安があったからこそ、祖先は安全な場所を確保し、生き延びてきました。不安は、私たちを行動へと駆り立てる、強力なモチベーションなのです。
一方で、気分の落ち込みや意欲の低下、いわゆる「うつ状態」は、もっと複雑で根源的な問題に直面した際の、高度な適応反応であると考えられています。進化精神医学の分野では、これを「分析的内省仮説」と呼んでいます²。
この仮説によれば、抑うつ気分は、解決困難な複雑な問題に直面した際に、エネルギー消費を抑え、問題分析に集中するために私たちを一種の「省エネモード」に移行させる機能だといいます。例えば、自分の過ちによって最愛の人を深く傷つけ、関係が修復不可能なまでに壊れてしまった時。これは、猛獣から逃げるような単純な問題ではありません。「なぜあんなことをしてしまったのか」「自分の何が間違っていたのか」「どうすれば二度とこのような過ちを繰り返さないで済むのか」。抑うつ状態がもたらす社会からの引きこもりや快感の喪失は、他の活動へのエネルギー配分を停止させ、この根源的な問いに対して、膨大な認知資源を投入させるための戦略なのかもしれません。
この苦痛に満ちた内省のプロセスは、失敗から学び、将来の社会的な失敗を避けるための、極めて重要な学習機会となりうるのです。抑うつ気分は、私たちに「今は無理に行動せず、立ち止まりなさい」「その問題と徹底的に向き合い、人生の軌道修正を図りなさい」と促す、魂からのメッセージなのです。
このように、不安も抑うつも、本来は私たちの生命を守り、より良い未来へ導くための大切な味方なのです。問題は、その警報が鳴り止まなくなったり、あまりにも大きな音で鳴り響き、日常生活そのものを破壊してしまったりすることにあります。
心の警報と上手に付き合うための3ステップ
大切なのは、警報を無視するのでも、警報の音に飲み込まれるのでもなく、その「音の意図」を正しく聞き取ることです。ここでは、わかりやすく具体的に3つのステップにまとめてみました。
ステップ1:感情に気づき、名前をつける(ラベリング)
まず、自分の中に湧き上がってきた感情に意識を向け、「今、私は不安を感じているな」「胸のあたりがモヤモヤして、悲しい気持ちだ」と、心の中で実況中継するように言葉にしてみます。この「感情のラベリング」という単純な行為が、恐怖や怒りといった情動反応を司る脳の扁桃体の活動を抑制し、自己制御に関わる前頭前野の活動を高めることが、脳科学の研究で示されています³。感情に名前をつけるだけで、私たちは感情と自分自身との間に少し距離を取ることができ、感情に飲み込まれるのを防ぐことができるのです。
ステップ2:判断せず、ただ受け入れる(アクセプタンス)
次に、その感情を「良い」「悪い」と判断(ジャッジ)せず、「不安を感じていてもいい」「悲しんでもいい」と、その存在をただ許可します。「不安になるなんて弱い証拠だ」と自分を責め始めると、本来の不安に加えて、「不安を感じる自分への罪悪感」という第二の苦しみが生まれてしまいます。アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)などの心理療法では、こうした不快な感情や思考を無理に変えようとせず、ありのままに受け入れることが、結果的に心の柔軟性を高め、苦痛を和らげることが示されています⁴。
ステップ3:感情からのメッセージを読み解き、行動する
感情を少し冷静に眺められるようになったら、「この不安は、私に何を伝えようとしているのだろう?」と問いかけてみます。例えば大事な会議の前で緊張しており、パニックに陥りそうな時、それは単に「プレゼンの準備不足」を知らせているのかもしれませんし、「最近ちゃんと休めていないこと」を警告しているのかもしれません。
そのメッセージが読み解けたら、完璧な解決策でなくても構いません。今できる、ほんの小さな一歩を踏み出してみましょう。プレゼン資料を5分だけ見直す、温かいお茶を一杯飲む、友人に一言だけメッセージを送る。その小さな行動が、鳴り響く警報のボリュームを少し下げてくれるはずです。
おわりに
本当の心の強さとは、ネガティブな感情を一切感じないことではありません。むしろ、不安や悲しみといった、人間としてごく自然な感情の波を乗りこなし、それらを人生の羅針盤として活用していくしなやかさの中にこそ、本当の強さは宿るのではないでしょうか。
「無理しない」「ありのままの感情を受け入れる」。それは、決して逃げや甘えではありません。自分という唯一無二の存在を大切に扱い、持続可能な形で人生を歩んでいくための、最も賢明で、最も勇敢な選択なのです。
もし、警報の音が大きすぎて、自分一人ではどうしようもないと感じる時は、ためらわずに専門家に助けを求めてください。それは、壊れる前の警報装置を、専門の技術者に修理してもらうのと同じ、賢明な判断です。あなたの心の声を、あなた自身が一番の味方となって、聞いてあげることから始めてみませんか。
参考文献
Nestler, E. J., Barrot, M., DiLeone, R. J., Eisch, A. J., Gold, S. J., & Monteggia, L. M. (2002). Neurobiology of depression. Neuron, 34(1), 13-25.
Nesse, R. M. (2000). Is depression an adaptation?. Archives of General Psychiatry, 57(1), 14-20.
Lieberman, M. D., Eisenberger, N. I., Crockett, M. J., Tom, S. M., Pfeifer, J. H., & Way, B. M. (2007). Putting feelings into words: affect labeling disrupts amygdala activity in response to affective stimuli. Psychological Science, 18(5), 421-428.
Hayes, S. C., Luoma, J. B., Bond, F. W., Masuda, A., & Lillis, J. (2006). Acceptance and commitment therapy: Model, processes and outcomes. Behaviour research and therapy, 44(1), 1-25.