「9」と「q」が見分けづらい──数学にこそ筆記体が必要だ
更新日 : 2025年5月8日
塾で高校生に数学を教えていると、時折ひどく見苦しいノートに出会う。数字の「9」と、ローマ字の小文字「q」がごちゃごちゃになって、書いた本人ですら時々間違える。しかもそれが、一人や二人の癖ではない。驚くほど多くの生徒が、変数や数字を区別なく、ぞんざいに書いている。
最初は書き癖の問題かと思った。しかし観察を続けるうちに、これは書き癖ではなく、教育の不備だと確信した。
筆記体を教えなくなった代償
今の日本の学校では、アルファベットの筆記体を教えなくなって久しい。確かに日常生活では筆記体など使わないし、スマートフォンやパソコンで文字を入力するのが主流の時代だ。だが、だからといって筆記体の価値がゼロになるわけではない。
特に数学や物理、工学などの理系分野においては、記号の可読性こそが命だ。
「9」と「q」、「1」と「l」、「0」と「O」、「z」と「2」。これらは書き方を工夫しないと混同されやすい。現場での混乱を避けるために、欧米の理系教育ではごく自然に筆記体が使われている。
たとえば「q」は、筆記体で書けば一目で「q」と分かる。「z」は筆記体で書けば、「2」との混同はまず起こらない。ところが、日本の高校では、そうした書き分けの技術を全く教えていない。むしろ、「とりあえず読めればいい」という曖昧な書き方を許してしまっている。
書き方の指導は知的精度の指導でもある
数学においては、記号が意味を担う。「a」と「α」は別物だし、「x」と「χ(カイ)」を間違えれば命取りになる。計算途中で変数を読み違えるだけで、解答が破綻する。だからこそ、「読み間違えないように書くこと」そのものが、数学的思考の一部なのだ。
ところが、今の高校教育ではその基本が抜け落ちている。変数の形に頓着せず、ぐちゃぐちゃに書いて「読めればいい」とする態度がまかり通っている。
これは明らかに、教育の怠慢である。
欧米の高校や大学では、教員が当然のように「変数は筆記体で書くように」と指導している。これは様式美ではなく、論理的な配慮だ。「読めない」「紛らわしい」を排除するための知恵が蓄積されている。科学技術の蓄積とは、こうした細部への配慮から始まるのではないか。
科学技術立国を名乗るのなら
日本はかつて「技術立国」と呼ばれた。だが、もし今もそれを自負するのなら、教育の細部を見直す必要がある。
イノベーションは、優れた頭脳とそれを支える基礎学力から生まれる。そして基礎学力とは、丁寧に、正確に書き、読み、考える力だ。数学の記号一つに気を配れない教育から、精緻な科学は育たない。
AIやICTが進化していく中でも、数学だけは「書く学問」であり続ける。だからこそ、記号の形にこだわること、書き方を明確に指導することが不可欠だ。
数学においては、筆記体を「道具」として取り戻すべきだ。特に「q」や「z」のように、誤読の可能性が高い文字は、筆記体で書くのが最も合理的だ。
生徒たちが未来の研究者や技術者になるとき、読み違えで結果が崩れるようなことがあってはならない。高校の現場でこそ、そうした基本の「書き方」を教えるべきだと、私は強く思う。