キプロスの歴史【世界史】
更新日 : 2025年10月16日

キプロス(英語: Cyprus/ギリシャ語: Κύπρος, トルコ語: Kıbrıs)は、地中海東部に位置する島国で、その歴史は非常に古く、さまざまな文明・帝国の交錯を経ています。以下に、キプロスの歴史を時代ごとに整理して解説します。
概観(先史〜現在)
大まかな流れは以下のとおりです(詳しくは後節で):
- 先史時代・青銅器時代:最初の定住、銅の採掘・交易
- 古代:ギリシャ文化との接触、アッシリア/ペルシア/アレクサンドロス以後の支配
- ローマ・ビザンツ時代
- 中世:十字軍・ラテン王国、ヴェネツィア支配
- オスマン帝国支配(1571年〜1878年)
- イギリス統治時代(1878年〜1960年)
- 独立後の紛争と分断(1974年以降)
- 現代:EU加盟・解決交渉など
以下、主要な時代を追って詳しく見ていきます。
先史時代・古代
最初の人類とネオリシック定住
- キプロスには、人類が約 13,000〜12,000 年前(紀元前11000〜10000年ごろ)に到達したとされます。
- その後、紀元前8,500年ごろには農耕・定住を行う集落が成立します。
- ネオリシック時代の遺跡として有名なのが キロキティア(Khirokitia)。これは紀元前7,000年ごろにさかのぼる定住遺跡で、ユネスコ世界遺産にも登録されています。
青銅器時代:都市と交易
- 青銅器時代には、キプロス島で本格的な都市形成が始まり、交易経済が発展しました。特に島の銅資源(“Cyprium” → “Cuprum”=銅の語源説もあります) が、地中海世界でのキプロスの重要性を高めました。
- 代表都市としては エンコミ(Enkomi) などがあり、都市遺構や交易品の出土が確認されています。
- この時代には、ミケーネ文明(ギリシャ本土)との文化的接触も深まり、後期青銅器時代にはギリシャ系住民の移住があったとされます。
古代:諸帝国の支配と自治
- 古代には、キプロスは複数の小王国(サラミス、キティオン、アマトス、パフォス、クーリオンなど)に分かれていました。
- 紀元前545年頃、アケメネス朝ペルシアがキプロスを征服。
- その後、ペルシア支配下にある状態が続きますが、紀元前333年、アレクサンドロス大王による東征でペルシア帝国が崩壊すると、キプロスはアレクサンドロスの支配下に入りました。
- さらにその後はプトレマイオス朝エジプト(マケドニア王朝後継)による間接支配が行われました。
- 紀元前58年にはローマ帝国の属州とされ、その後はローマ支配下になります。
ローマ・ビザンツ時代
- ローマ帝国時代には、キプロスは帝国の一地域として統治され、ローマの制度・文化が持ち込まれました。
- 4世紀にローマ帝国が東西分裂すると、キプロスは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)領となりました。
- ビザンツ時代にはギリシャ正教が強く根付き、キプロスのギリシャ語・正教的文化の基層が形成されました。
- しかしながら、7世紀以降、アラブの襲撃・征服が続発し、島は度々被害を受けます。
- 特に 688年 に、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス2世とウマイヤ朝カリフとの間で合意がなされ、キプロスは「両国に税を払いながら中立的に管理される地域(コンディミニウム)」となる時期もありました。
- その後、ビザンツ帝国が力を盛り返すと、965年にニケタス・カルクツェスがキプロスをビザンツ支配下に再統合しました。
中世:ラテン王国・ヴェネツィア支配
- 1191年、第三回十字軍の際、リチャード獅子心王がキプロス島を占領。その後、1192年にギー・ド・リュジニャン(Guy de Lusignan)がキプロスの王となり、キプロス王国(ラテン王国) が成立しました。
- その支配下では、ヨーロッパの封建制度やラテン・カトリック教会の影響が強まりました。
- その後、王国はさまざまな相続や政争を経て、14〜15世紀にはヴェネツィア共和国の支配が強まっていきます。
- 1489年にキプロスはヴェネツィアに併合され、ヴェネツィアの植民地とされます。
オスマン帝国支配(1571年〜1878年)
- 1570年〜1571年にかけて、オスマン帝国はキプロスを征服し、島を支配下に入れました。
- キプロス征服時には、ニコシアやファマグスタ(アモクストス)などの都市で抵抗があり、多くの犠牲を伴いました。
- オスマン支配下では、非ムスリム住民(主にギリシャ正教徒)はミレット制という宗教共同体制度の下で自治が認められました。
- また、トルコ系住民の導入も進められ、人口構成が変化します。
- この時期、キプロスはオスマン帝国の一州として、比較的安定した時代を過ごしました。
イギリス統治時代(1878年〜1960年)
- 1878年、ベルリン会議の結果、イギリスはオスマン帝国からキプロスの統治を委任されました(オスマン領有権を保持する名目上の条約)。
- 第一次世界大戦勃発時、オスマン帝国が中央同盟国側についたため、1914年にイギリスは正式にキプロスを併合。
- イギリス統治期には、ギリシャ系住民を中心に「エノシス(ギリシャとの統合)」運動が高まりました。
- 1950年代には、キプロス島のギリシャ系住民による武装抵抗組織 EOKA が発足し、イギリス支配の終焉とギリシャとの統一を目指しました。
独立、紛争、分断
- 1960年8月16日、キプロスはロンドン・チューリヒ協定に基づいて独立。共和国(Republic of Cyprus)が成立。
- しかし、ギリシャ系住民とトルコ系住民間の対立は根深く、民族間の緊張が続きました。
- 1974年7月、ギリシャ軍事政権支持派のクーデターが起こり、これを理由にトルコ軍がキプロス北部に侵攻。これにより島は南北に分断されてしまいます。
- 北部では「北キプロス・トルコ共和国(Turkish Republic of Northern Cyprus, TRNC)」が1983年に一方的に独立を宣言しましたが、国際社会ではトルコ以外からの正式承認はありません。
- 国際連合(UN)は分割地域(緩衝帯)を管理し、南北を隔てる「グリーンライン(Green Line)」が設けられました。
- 2004年には国連のアンナン・プランが住民投票にかけられましたが、ギリシャ系住民側がこれを拒否。
- 同年、キプロス共和国は欧州連合(EU)に加盟しました。ただし、北部占領地は EU 法制度の適用が停止された「非適用地域」とされています。
- 2008年からはユーロを導入(南部地域)し、通貨をユーロに統一しました(北部はトルコリラを使用)
現代の課題と見通し
- キプロスは、南北問題(キプロス問題)が未解決のまま今日に至っています。政治的・領土的統一は実現しておらず、対話・交渉が継続中です。
- また、1974年の侵攻・分断後、多くの文化財・遺跡が略奪されたり散逸したりした問題があります。2024年にも、トルコ侵攻後に国外へ流出した文化財の返還が進んでいるという報道があります。r
- 2024年には、キプロス分割から50年を迎え、南部と北部で対照的な記念の場面が報じられています。
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